清見潟大学塾のあらまし

第1節 清見潟大学塾の開設

昭和59年に、来るべき高齢化社会を迎えるにあたって、清水市は将来の生涯教育の方向性を定めるために「高齢者教育促進会議」を組織し、さまざまな角度からの検討に入った。会議では、従来それなりに評価を受けていた清水市の高齢者教育も、定員制、期間限定制、年齢制限制、地域制限制、無難な講師の選定方式などに制約されて、住民にとって真に魅力的なものになっていないことが指摘された。

議論の中で市民が「健康で学びたい」という意欲のある限り、学べるシステムと、人と人をつなぐネットワークをつくる必要性が認識された。そして後に清見潟大学塾初代塾長に就任することとなった山梨隆司の提案によって、民間活力と市場原理の導入、ボランティアの心への訴えという方法論に発展した。会場の提供、広報、事務は行政側が行い、運営はすべて教授や塾生の自主運営に委ねるという清見潟大学塾の原形が出来上がった。

学ぶ生きがいというが、教える生きがいもあるはずで、そういう場を提供することにも意義がある。そこで教授は公募することとした。受講生の制約も一切取り払い、誰でもがいつまでも自由に学べる制度とし、「大学ゴッコの『清見潟大学塾』」と命名した。清見潟とは三保の松原を擁した美しい清水港の古称で、万葉集にも謳われている。

こうして清見潟大学塾は昭和60年9月1日に設立された。設立当時は清水市教育委員会の全面的な支援を得て、事務局は当初社会教育課に置いた。5年後、事務局を清水市中央公民館へ移設し、市採用の嘱託者がその事務にあたった。

ただし運営はすべて市民教授による自主運営である。大学塾規則その他システムのすべては、主として民間企業出身の市民教授たちの柔軟な思考で逐次形成されていった。

第2節 清見潟大学塾の基本理念

清見潟大学塾のキーワードは以下の3つからなる。まずモットーは「遊び心で大学ごっこ」であり、仲間との学習は楽しいものであることが絶対条件だ。また「生活者第一主義」を基本哲学としている。そしてその戦略は「市場原理の導入」である。「とことん学んで、ちょっと臥せって、あっさり死ぬ」ことが私たちの美学であり、最も美しい生き方であると固く信じている。清見潟大学塾の生涯学習はあくまで手段であって、目的ではない。目的は学習を通じて市民の生きがいを高め、健全なまちづくり、人づくりに貢献することであり、明日への希望と理想に燃える素晴らしい街を築くことにある。

従来の高齢者教育はとかく高齢者を社会的弱者としてとらえ、弱者に施すという視点の教育であった。清見潟大学塾はこれを実践の中で否定した。生活者の視点で高齢者を見ると、自らの人生に肯定的であり、生ある限り人生を楽しみ、さらに向上したい意欲を持ち続ける人が多いのである。高齢者は将来の街づくりの中核的メンバーたりうる人たちであると主張し、来るべき高齢社会を暗い社会とする風潮に立ち向かった。これからの生涯学習はどこが主催しようとも、弱者救済策であってはいけない。そうした発想は今の健康な高齢者には通用せず、敬遠されるだけである。

清見潟大学塾は学ぶ事も生きがいならば、教える事も生きがいであるはず、との視点から教授公募制をシステムの基本においている。教授の資格にも科目にも何の制限もない。ただ受講者10名以上 (34回度から8名に変更) の支持があることが教授の唯一の要件なのである。良い講義があれば受講生は増えていく。逆におざなりの授業が続けば、塾生は減少し講座は翌年から継続できない。教える者と学ぶ者の-騎打ちであり、この緊張感が塾発展の原動力である。

教授の評価は、経歴でも行政でもなく、受益者が行うほど確実なことはない。受益者の評価で教授の淘汰が行われ、結果として教授陣の質が担保される。市場原理が貫徹されるのである。厳しいといえば厳しいことである。ある大学教授は退官後に教授に応募したが、塾生が集まらなかったのであっさり塾生に転向した。

第3節 清見潟大学塾のシステム

講座は毎年4月1日に開講し、月に1回ないし2回の講座を継続し1年間で終了する。場所は旧清水市内の公民館 (現生涯学習交流館) など19施設が利用されている。当初から立派な生涯学習センター建設などに金をかける事はないと主張してきた。ために数多い公民館の空いている時間を利用している。タコ足ならぬイカ足であるが、塾生の主力が高齢者であることを考えると、分散しているメリットもない事もない。

毎年8月の市広報紙およびホームページで教授募集の広報がなされ、希望者はハガキで申し込む。11月に希望者を対象にオリエンテーションを実施し、講座計画書などの書類を提出する。特定の政治、宗教に偏した内容のものと、物品の販売を目的にしたものは排除される。それ以外は会場、日程を調整した上で、1月の市の広報紙での塾生募集を始める小記事が掲載される。塾でも塾生募集のパンフレットを作成し、各交流館等に配布したり清水区連合自治会の協力を得て、各戸回覧などで塾生の募集に努める。ホームページでのPRと受付も始まった。

一つ一つの講座がその教授のパーソナリティを中心とした塾であり、教授はその経営者である。教授は講義だけでなく、塾生の名簿管理、受講料の集金、出席管理など一切の事務を遂行する。すべての面で教授は塾生に最高の満足感を与えなければならない。その決意と使命感が講座の活性化の原点である。それを統括したものが清見潟大学塾となる。

受益者負担という市場原理で受講は有料制である。月1回の講座は7,000円 (運営費2,300円含む) 、月2回の講座は14,000円 (運営費4,000円含む) を支払う。受講料は講座ごと閉ざされて、すべて教授の謝金となるので、自分の講座の塾生数が増えればお小遣いが増える市場原理が働く。

また塾生数が20名を超えた場合には、超過人員分の受講料の半額を教授特別負担金として塾におさめ、親睦会費などに当てることにした。これはピアノや和裁のように基本的にマンツーマンで指導する講座と、多人数でも聴講できる講座を同じ計算式で処理するのは不公平だと判断したからである。市場原理を基本としつつも、不都合が生じた場合は話し合いで柔軟に変えていくことも、清見潟大学塾の伝統となっている。

開講後1ヶ月以内に事務局に申し出れば、クーリングオフ制度を適用できる。講座の受講はカタログ販売であるので、受講してみたら期待とは違ったことは往々にしてありうることである。その場合は新規申込者に限り受講料が返還される (運営費を除く) 。毎年数件の申し出があるが、円滑に返還事務が進められている。

年間講座日数の4分の3以上の出席者には、修了書が授与 (現在は希望者のみ) される。そして1単位がカウントされる。かっては15単位を取得すると塾から博士号が与えられた。博士号取得者はすで200名を越えたが、現在は廃止された。理由は個人情報保護法の施行によって、大量のデータを保有する事ができなくなったことにある。

第4節 清見潟大学塾の現況

2019年度における清見潟大学塾の現況は以下の通りである。講座数は全部で113、これを担当する講師数は63名、塾生数は延べで1,674名である。3つの学部に分けている。

第1学部は作品展示部門であり、28講座である。具体的には書道、ちぎり絵、和裁、トールペイント、キルト、絵手紙、ビーズアクセサリー、ボールペン習字、一閑張、木工、着付けなどの講座である。

第2学部はステージ発表部門であり、55講座である。ピアノ、二胡、三味線、琴、大正琴、コーラス、演劇、舞踊、体操、気功、太極拳、楽器演奏、ウォーキング、ノルディックウォーキング、ヨガ、フラダンスなどの講座である。

第3学部はその他の文化、教養部門であり、30講座である。郷土史、外国語、古典、短歌、料理、ブリッジ、パソコン、茶道、スマホ、アロマテラピー、将棋などである。

ピアノ講座だけが50歳以上の年齢制限をしている。現在15講座あって希望者が多い。高齢者のピアノ教室は清見潟大学塾が嚆矢であり、それをピアノメーカーが目をつけて全国に広めた。ピアノを練習している高齢者が数百人もいる街は、全国にそう多くはないであろう。ひとつの文化が立派に地域に形成されているのである。

現在講師63名の内、男性は17名、女性が46名である。静岡市民は56名、県内他市町村から7名。9年前までは東京から清水まで月1回赤字覚悟で講義に来る講師が1名いた。塾生に講義が出来ることに、こよなく喜びを感じていたのである。

1,674名の塾生のうち男性は約15%、85%は女性である。最少年齢者は8歳で最高年齢者は93歳。塾生の主力は、50歳台から70歳台の女性である。

第5節 清見潟ゼミナール

このゼミナールは、平成4年度「清見潟セミナー」としてスタートした。平成3年に総理府、明日の日本をつくる協会の「ふるさとづくり大賞」で内閣総理大臣賞を受賞した折、審査委員会から受講生の男性比率を高めるべく智恵を出しなさいとの意見が出され、それに応えてプランを作成しはじまった講座のひとつである。企業内の中高年齢者に目をつけ、彼らが定年退職前に地域との関わりを持つとともに、教養の涵養、趣味の発見に役立つことを主眼とした。

事業としては主として県内の大学の協力を得て、月1回大学教授による多分野の専門講義を実施し、受講料は年間通しで5,000円とした。受講生の男性比率も50%を超え、所期の目的を達した。会場は清水区役所内の「ふれあいホール」である。現在は「清見潟ゼミナール」と名前を改め、大学教授のみならず多分野において講師を招聘している。

この事業を推進するために清水区内の企業に呼びかけを行い、当初50社の企業の賛同を得た。現在は25社である。後援会費は1口年間2万円で最高3口までとしている。またセミナー当時は、静岡県教育委員会主催の生涯学習大学「葵学園」卒業生が奉仕活動として、運営の主力を担って活動していた。

※32回度 (H29.3) をもって終了している

第6節 塾の組織と運営

塾の運営は講師会の自主運営である。組織の最高決定機関は教授総会である。実際の運営は理事会がこれを行う。理事会は塾長、副塾長、事務局長、3つの学部からそれぞれ学部長1名、理事2名、合計13名の構成で、隔月に1回定期的に開催されている。塾長、理事は教授総会で選出される。副塾長、事務局長は塾長の指名によって教授総会の承認を受け決定している。役員の任期は2年である。その他必要に応じて各学部講師会を学部長が招集している。

各講座では講座の円滑な運営のために、塾生から幹事、副幹事が選出されてその任を果たしている。年に一度幹事会を開催して、公民館 (生涯学習交流館) の使用方法などの指導をする他、塾生代表としての意見を聞いている。また代表幹事には塾運営費の会計監査をゆだねている。

事務局は当初清水中央公民館内の一室を借用していたが、平成20年4月から、区内中心部の商店街の一角に移転して、事務局の機能を果たしている。事務局の構成は半専従の事務局長と専従の事務員1名、アルバイト1名で構成されている。いずれも有給である。運営経費は運営費と講師負担金からなり、なんとか維持している。各年度最初の理事会で昨年度の決算と当年度予算が審議される。剰余金が出れば積み立てをし、周年事業に使われる。

学期末に近いころには、第1学部の修了作品展と第2学部のステージ発表会が開かれて賑わう。塾生たちは学んだ技術を生かすべく、作品製作や練習に励む。こうした情報を流したり、意見等を交換するために毎月月初めには「清見潟ニュース」が発刊されて、講座日に全員に配布される。今年4月号は309号の発刊となる。またホームページでも必要なニュースが流される。

第7節 行政との役割分担の変化

清見潟大学塾は設立当初から行政からの補助金などの財政的支援はほとんどなしに、自立の精神で運営を進めてきた。旧清水市当時は、それでも毎年178,000円を消耗品など現物支給の形で援助していただいていたが、静岡市との合併直後からこれもなくなった。平成15年4月の合併により、行政との役割分担および市民活動への政策が大きく変わった。一言で言えば面倒見の良さから自立化の促進の方向である。

清水市時代は、行政は清見潟大学塾支援策として、講座会場等の優先予約制および無料貸し出し制(他の指定団体も多くは同条件)。清水中央公民館の小さな部屋を専用事務室として無料貸し出し。事務員の提供、清水中央公民館での受付業務の補助。視察者対応。市広報誌に教授、塾生募集の広報を掲載など、行政からは大きな予算流出は伴わないが、しかしかなり手厚い支援をしていただいていた。またこうした関係を良好に維持するために、清見潟大学塾連絡協議会を年2回ほど開催して意思疎通を図っていた。出席者は行政側が社会教育課長、長寿・介護課長、清水中央公民館長の3名であり、一方塾側は塾長、副塾長の3名であった。

合併前からある程度予想されていたことであり、合併に伴う諸事情の変化は、自立化への腹構えと将来ビジョンをもって対応できた。ピンチをチャンスに生かす発想で、自立化を促進している。上記の塾のシステムや運営については、設立当初からは大きく変わった現況を説明している。

現在でも毎年3月下旬には新年度の開講式を開催し、市長、市議会議長、教育長などの列席をお願いして、ステージで市長を前に講師代表が宣誓を行う儀式を続けている。1月下旬の新年会にも出席いただき、講師と懇親を深めている。ただしご祝儀は一切受け取らない。市長からは「金も出さないが、口も出さない。お任せするからしっかりやれ」と激励されている。

第8節 清見潟大学塾のトピックス

内閣総理大臣賞受賞
平成2年、明日の日本を創る協会の「ふるさとづくり大賞」で「内閣総理大臣賞」を受賞。真の大学ここにありと、ユニークなシステムが評価された。

全国フォーラム開催
平成6年「10周年記念全国フォーラム」、平成12年「15周年記念全国フォーラム」、平成16年「20周年記念生涯学習全国フォーラム」をいずれも旧清水市内において400人規模で開催。外部からの出席者は各界100名程度で市民主導型生涯学習運動の全国発信をした。

記念誌等の発刊
平成3年「大学ゴッコ一生涯学習モデルシステムへの挑戦」、平成6年「いま書き残したいことがあるー戦争体験作文集」、平成12年「生涯学習モデルシステム」平成16年「新静岡市発 生涯学習20年」 (東京・学文社刊) ビデオ作成 文部省作成ビデオの他、自主制作ビデオが数本ある。

劇団清見潟公演
もともと「シナリオ講座」に集う人々が、平成7年に劇団を結成し劇を演ずるまでに至ったものである。毎年清水の歴史から題材をとり、県演劇祭の出演作品としてすでに17回の公演をし、多くのファンの心をつかんでいる。県芸術祭賞の最高賞受賞もしている。

視察、取材、全国講演
「内閣総理大臣賞」を受賞以降、毎年十数件の視察、取材、講演等の依頼があり、多い年は数十件に及ぶことがあり、対応している。平成14年暮れには韓国大原市からの20名の視察団の訪問を受けた。
テレビ、新聞、雑誌などの取材も多く、平成19年5月にNHK「生活ホットモーニング」の50分番組での反響は大きく、事務室の電話は一日鳴りっぱなしであった。

ネットワーキング
本塾のシステム、とりわけ市民教授の公募制に倣って、新しく生涯学習システムを形成したところが、全国いくつか誕生している。その中で、富山県生涯学習カレッジ「自遊塾」「三島いきいき塾」「東海道金谷宿大学」などと交流している。

第9節 清見潟大学塾の意義

清見潟大学塾は昭和60年9月に、当初教授12名、塾生100名の規模でスタートした。塾の規則も何もなく始まったものであり、誰しもこんなに長く続くなどと夢にも思っていなかった。それが年を追うごと倍倍の規模で拡大していった。5年目で最初に行政が音を上げた。事務量と会場の確保の問題が発生した。生活者の視点に立つ柔軟なシステムは、もともと行政にはなじまないものであった。

何もない中で教授陣が自主的に智恵を絞っていろいろなシステムを作りながら、いつしか私たちはこの新たなシステムに確かな手ごたえを感じていた。物理的な困難も、市民が希望し社会的、今日的に大きな意味があるのなら、英知をもって切り開くしかないのではないか。当時16あった公民館の月曜休館を止めれば、現在の6分の1、即ち2館が新しく出来たのと同じ効果があると提案し実現した。

この頃から手作りのシステムを全国的にPRし、清見潟大学塾の意義を教育委員会や役所内に知らしめる戦略にでた。教授たちの努力によって塾のこと、そこで活躍する教授のことが地方紙は言うに及ばず、各種の雑誌、ニュースなどに出るようになった。明日の日本をつくる協会のふるさとづくり大賞、「内閣総理大臣賞」受賞もその戦略の一つであった。翌平成4年には副塾長庄司勲 (当時) が、現役企業人と塾との関わりを論文にして、「毎日郷土提言賞」のグランプリを獲得した。このことは、非常に早い段階から市民主導型の生涯学習のあり方を、市内や全国にアピールしたことになる。

行政が裏方に徹し、運営を公募した市民教授に委ねたことは、市の高い見識によるものである。寛容と忍耐のこころが当塾を支えた。地方財政逼迫の折、予算削減に見舞われ苦慮する各地の教育委員会が、頻繁に視察に訪れる。大きな財政支出なしに、3千人を越える生涯学習がなぜ出来るのかが問題意識である。「私たちは行政を代替しているのでもなく、行政を補完しているのでもない。全く新しい社会的価値を創生しているのだ。」が私たちの答えである。自発的な意思に基づいて、他人や社会に貢献したいと思う人々のパワーは予期し難いものがある。

旧清水市は介護保険適用者率が全国平均よりも3%以上低いという。原因を調査中であるが、旧清水市は清見潟大学塾をはじめとして、生涯学習の盛んな街である。学ぶ元気な高齢者の存在が、その一つの原因である可能性が大であるとのことである。そうであるとするならば、市民が自分の思いを生かし、その自立的な生き方を育てる生涯学習は、最も安上がりの福祉、究極の福祉であるとも言い得る。

確実に高齢社会が進展する中で、清見潟大学塾の社会的使命は大きい。平成19年の視察団体から、イギリスでは清見潟大学塾の設立の2年前に、エイジンングコンサーン、イングランドという団体が設立され、大きな組織に育ち、強い社会的影響力を持っているという。その思想、システムが清見潟大学塾とウリ二つであるとの教えをいただいた。先達に学ぶと共に、現実を深く分析して、時代を先取りする政策集団を志しつつ前進していきたい。

※各所に「教授」という言葉が出ています。25回度より「講師」と改めていますが、当時の文面につきましてはそのまま「教授」と記してあります。